@article{oai:jumonji-u.repo.nii.ac.jp:02000135, author = {狩野, 浩二 and KARINO, Kouji}, journal = {十文字学園女子大学紀要, Bulletin of Jumonji University}, month = {Mar}, note = {群馬県佐波郡島村(後に境町、伊勢崎市に編入、現在は廃校となった)立島小学校(以下、島小と略記)において斎藤喜博(1911 -1981)は校長として学校づくりを行った。斎藤が群馬県教組書記長の立場から初任校長として赴任した学校が島小である。本稿でいう「授業研究を核とする学校づくり運動」の起点となる教育実践である。斎藤による島小の学校づくりは41 歳で同校の校長となった1952年から、不意転により同郡境町(後に伊勢崎市に編入)立境東小学校校長に異動となった1963年3 月までの11 年間にわたる。その間1955年から8 年間にわたって取り組まれたのが島小の学校公開研究会(以下、公開研と略記)である。斎藤の学校づくりの中では“ハレの舞台” として学校行事が位置づけられた。そのひとつとして取り組まれたのが、学校公開研究会である。そのプログラムの中の前半部分には“授業研究” が位置づけられた。授業は島小の教育研究を推進することが目的とされた。その目的から初回(1955年)を除いて全公開研で特定の授業者が選択された。その基準は当該年度において島小の“研究に値する授業” を実施できるかどうかということである。この基準で教師が選ばれた。つまり島小でその時期において選ばれた教師の授業が、公開研において実施された。中でも全8 回に及ぶ島小公開研の中で、最も多くの回数である8 回の授業研究を実施したのが、武田常夫である。武田は公開研のすべてにおいて授業者となった。最終回となった第8 回公開研究会(1962年12月)において武田は自主教材(教科用図書以外の教材)を選択する。その上で島小の到達点といってよい授業を展開した。本稿ではその際使用された学校公開研究会の要項(謄写版刷り)を主な資料として取り上げる。その要項に掲載された武田による授業案を検討する。そのことを通して、島小の到達点といってよい授業の実態に光をあてる。【査読あり】}, pages = {91--101}, title = {授業研究を“核” とする学校づくり運動に関する研究―島小における学校公開研究会に関する授業を中心に―}, volume = {54}, year = {2024}, yomi = {カリノ, コウジ} }